ハニートラップ 1

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「__だから、俺にはハニートラップなんて無理だ。いや、努力はしている。だけどなかなか……」


 大事に大事にしなければと思っていたイヌピー。
 だけどその言葉が聞こえてきた時、心臓がでかい杭かなにかでぶち抜かれたような痛みを感じた。





ハニートラップ





 乾青宗と再会したのは、イザナが死んだあの日から10年の歳月が過ぎた夜だった。

 普段は顔を出さないような繁華街の高級クラブ。だがその夜は取引先が指定してきたこともあり、面倒だと思いながらも足を運んでいた。そこそこの規模の会社のお偉いさんで、相手は接待しているつもりなんだろうが、ダルい話を繰り広げる取引先に、ああくそ、殴り殺してぇと心の中で唾を吐く。梵天の幹部になったっていうのに、己は無駄に理知的であるがゆえに面倒事を回避できないことが多い。これがマイキーや三途あたりだったら後先考えずにぶん殴るなりぶち殺すなりしているんだろう。残念だが先を考えてしまう俺にはできない芸当だ。

 全く俺はいつも貧乏くじばかり引いてんな。なぁそうだろ、イヌピー。

 頭の中で、こっそりと声に出さずに心のよりどころに話しかける。

 イヌピーと一緒に居た時も面倒事は俺が引き受けていた。綺麗な顔をした幼馴染は、その顔に似合わずに性格は狂暴でキレやすかった。さらに言うと喋りが下手で無表情。行動は結構天然。何を考えているのか分からないと黒龍に居た時も兵隊たちがひっそりと噂しているのを聞いたことがある。つまりはコミュ障なんだが、引っ込み思案なタイプではなくて攻撃的なタイプだから余計にタチが悪かった。

 そんな幼馴染の後始末も、俺はよくしていたんだった。あれは今とは違ってずっと楽しかったけれど。

 そんなことを考えながら、クラブの嬢たちと上辺だけの盛り上がりを演じてひたすらに時間が経つのを待った。ようやく話がまとまって解放された時には深夜をとっくに過ぎた時間になっていた。

 飲みたくもない酒を飲んで、好みでもない女にすり寄られて、本当に面倒ばかりだ。ずっしりと重く感じる体を引き摺りながら、護衛とともに車に乗り込もうとした瞬間、女の叫び声と男の怒鳴り声。それから何かがぶつかるような音が耳に入ってきた。

「……なに、喧嘩?」
「そうみたいですね。黙らせてきますか?」

 音の発生地は裏路地の一角。まぁこの辺は治安も良くないし、喧嘩なんて日常茶飯事だ。そのまま無視していこうかとも思ったが、なぜか視線が引き寄せられる。

 ネオンの光も届かない薄闇の中で、一人の青年が3、4人の男相手に立ちまわっているらしい。その背中にはさっき悲鳴を上げたであろう女の姿。なるほど、多勢に無勢だが若い男が女を助けてやっているのか。にしても無鉄砲だな、どこの正義感の強いガキだ。そう思って鼻で嗤おうと思ったのに。

「おい……待てよ」
「はい?」

 自分に話しかけられたと勘違いした護衛が首を傾げる。だがそれに応えることもできないほど俺の体は固まってしまっていた。

 昔 散々見慣れた腕を振りぬくような殴り方。細い体から出る強烈な蹴り。それになにより、この汚れた街で月のように輝く金の髪。

「イヌピー……」

 もう二度と会わない。そう決めていた幼馴染がそこで一人戦っていた。

「……っ! おい! あの金髪に加勢してこい!」

 呆けたようにイヌピーの姿をしばらく見つめ、それから彼が腹を殴られたことに気が付き慌てて護衛に指示を出す。梵天幹部の護衛を務める男はそこら辺のチンピラなど瞬殺で、あっという間に男たちは地面に沈められた。

 俺の気持ちを汲むように躾けられた男はそのチンピラを引き摺って路地の端まで行くと、そっと気配を消す。
 そして、その場に残ったのはやや髪の伸びた幼馴染ただ一人だった。

「ココ……? ココなのか?」
「……イヌピー、久しぶり」 

 10年以上前に決別したとは思えないほど間抜けな挨拶だった。だが声が震えないだけマシだったと思う。

 イヌピー。イヌピー。乾青宗。初恋の人の弟で、俺の2度目の恋。悪の道を進むと決めて、もう二度と会わないと決めた男がそこにいた。昔と変わらない、いや昔よりもずっと大人な色気を纏って立っていた。

 懐かしさと悦びと、同時に困惑で頭がくらくら揺れる。
 彼がまっとうなバイク屋を元東卍の仲間と経営しているのは伝え聞いていたけれど、あえて深くは調べないようにしていた。だってもし調べてイヌピーに恋人や妻や家族ができていたらどうするんだ。梵天幹部であることをいいことに、イヌピーの幸せを全部ぶち壊してしまうかもしれない。

 イヌピーを幸せにしたいんだったら彼に関わらない方がいい。ぶん殴って鎖につないで犯したいわけじゃないんだ。

 それでも消化しきれない想いが腹の中で燻り、いつも熾火のように身を焦がしていた。どれだけ女を抱こうが金を稼ごうが飢餓感は癒えることはなく、イマジナリーイヌピーに話しかけて己を慰める日々だった。

 それなのになんの心の準備もできていないまま、本物に遭遇しちまうなんて。ここ数年ですっかり鉄になったはずの心臓がばくばくと跳ねる。

 久しぶりの俺に、イヌピーは何ていうだろうか。
『変わったな』とか? 『すっかり反社だな』とか? あんまり今の俺を否定するようなことは言わないでほしい。自分でも何するか分からないから。

 そんなことを考えながらイヌピーを見つめていると、不意にその青い瞳に水の膜が盛り上がった。あ、零れる。そう思って手を伸ばすと、男らしくごつごつと節ばった指先に俺の手は捕らえられて。

「ココ……! 会いたかった……!」

 ぎゅうと握りしめられるとイヌピーが胸に飛び込んできた。



 それが一月前の、再会の夜だった。
 
 護衛が大慌てで拳銃片手に走り寄ってくるのを手を挙げて制し、俺の耳元でずっと会いたかったと囁くイヌピーを緩やかに押しとどめる。俺の勘違いだよなと彼の顔を覗き込むと真っ赤な顔をして『ごめん、ココが好きだからもう離れたくない』そう繰り返すイヌピーに、俺はまさか彼の同じ想いを持っていてくれたのだと知った。

 そうして、10年、いやいつから始まったのかも分からない長い片思いがついに実ったのだ。


 それからは大事に大事に彼を守って、少しづつ関係を深めていった。誰とも付き合ったことがないと言うイヌピーを怯えさせないように、まるで昔と同じ幼馴染のように振る舞い警戒心を解いた。いきなりがつがついって怖がらせてやっぱり別れるなんてならないように、小指の先ほどづつ進展させてついにこの間は手までつないだ。緊張ばかりしていたイヌピーも最近はすっかり俺に心を許して、風呂上りにごろりと膝に甘えてきたり、疲れたからベッドに連れていけと覆いかぶさってきたり一緒に寝ようと誘ってきたり。無邪気な子猫のように甘えてくるようになった。これを幸せと呼ばずに何と呼ぶだろうか。



 __そう思っていた。今夜までは。








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